ハワイと日本の歴史―ハワイ移民元年者―
先日のローカルニュースでも少し紹介しましたが、2018年はハワイ移民150周年になります。また、それだけではなく、ハワイ王朝転覆125周年となります。
今回は、ハワイ移民(元年者)についてご紹介します。
2018年1月1日に発行された「ハワイ報知」の記事を参考にさせていただいています。
1.外国人労働者としての移住
ハワイでは、1850年に土地改革法が施工され、外国人の土地所有が可能になりました。
これにより大規模なシュガープランテーションが次々に出来ました。
1861年から4年か続いたアメリカ本土の南北戦争の影響で、南部で作られていた砂糖が市場から消え、ハワイの砂糖産業が発展しました。
急激な発展とともに労働者が必要となり、日本からも出稼ぎ人の募集がされました。
横浜で募集し、1868年に約150人の日本人(元年者)がハワイに来ました。
当時の日本は江戸時代。鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争などによる混乱で横浜に移転する人も多く、当初募集に対して約400人が応募しました。身体検査の結果、合格したのは180人にも満たなかったです。出航許可までの間に、病気になったり、気が変わった人もいて結局、出航したのは約150人でした。
1868年5月9日に横浜の政府管轄権が徳川幕府から新政府に代わり、幕府が発行していた旅券を返上しましたが、新政府が新しい旅券の発行を拒否した為、5月17日に無許可のまま出港しました。
出港後、高波が続き、2日目、3日目と食事が出来ないほどでしたが、4日目に、天候が安定し、これを神仏のご加護と解釈し、2名を除く全員がチョンマゲを切り落とし、海に投げ、日本のある方向に手を合わせて拝みました。
出港から33日後の6月19日に、船はホノルルに到着しました。翌20日に上陸しました。
2.砂糖耕地生活と苦情
ハワイに到着した150名は、2週間の休暇のあと、カウアイ島、マウイ島、オアフ島のそれぞれの砂糖耕地に配属されました。
1ヶ月で26日の就労で、給料は月に4ドル。月末に2ドルが支払われ、残りの2ドルは手形でした。勤務時間は午前6時から午後5時まで、お昼休憩は15分という厳しいものでした。
食料、家賃、医薬品は雇い主が負担しました。耕地主は、移民一人につき、70ドルと衣料費を前払いしていました。
農耕に慣れていない移民が多く、炎天下での長時間の労働と、物価高により生活苦でハワイ移住民局に苦情が寄せられるようになりました。
それと同じ頃から雇い主からも、労働者の中には病気がちな者がいて仕事にならないといった苦情が出始めました。
雇い主による厳しい規則、罰則に対する苦情も増えてきましたが、通訳としていた牧野富三郎の英語力も、こうした問題に対して十分に対応できず、問題をこじらせてしまいました。
結局、富三郎は語学力を上げる為に、プナホウ・スクールに通うことになり、日本に数年住んでいたアームストロング夫人が新たな通訳となりました。
移民たちはは日本に耕地労働の困難さを報告し、日本とハワイの国際的紛争に発展しました。
米国から日本に対して移民処遇問題を解決する為に調査使節を送るように勧告がありました。
3.紛争の解決と待遇の改善
1869年9月28日、25歳という若さの青年正使、上野 景範が横浜を出航し、サンフランシスコ経由で12月27日にハワイに到着しました。
2日後の29日にはカメハメハ5世と会見しました。
日本とハワイの要求が何度も討議され、結果として、農耕不適格者と不平不満の42人の帰国が決まりました。
昇給を含む残留者の待遇の改善、規約満了後の身の振り方は、本人の意思次第という事になり。日本政府はハワイ残留者を正式に移民として認めました。
15日間の滞在で、上野の尽力によって問題は円満に解決し、両国の親善も維持され、友好関係も深まりました。
また、日本ハワイ通商条約が締結されました。
4.元年者のその後
アメリカ本土行きを希望したのは46人です。政府から渡航許可とともに「皇国の威を汚す不行跡や不義理がないよう」心が送られました。
うち42人は、1871年にサンフランシスコに出発しました。その後、少数がメキシコ、中南米に渡りました。
現在、世界中にいる日系人は300万人以上いると言われています。
その先駆けとなった150人の元年者についてご紹介させていただきました。
日本とハワイは今回ご紹介した内容以外にも歴史的に深く関わっていることが多いです。
今後もこういった内容をブログで紹介していきたいと思います。
参考資料:ハワイ報知2018年1月1日発行内記事「元年者の背景」